プラスチック異形押出を土台にした各種樹脂加工技術を駆使し、創造と進化に挑戦します。

 1970年のある夜のこと。一人の男が大阪の飲み屋で、一見木箱のように見える漬物の樽を見せられた。その樽は発泡樹脂でできていた─。
 ハッポー化学のもうひとつの柱、食品プレート用材製造の始まりは、実はこんなきっかけでした。その後、食品用の折り箱を発泡樹脂で作るというプランは、ハッポー化学に持ち込まれ、製品化に向けて開発を進めることとなるのです。

 プレートの開発そのものにも苦労はありましたが、それ以上に苦労したのは営業でした。折り箱業界は歴史が古く、なわばり的な意識が根強い世界。しかし、勢いで始めてしまったような事業だっただけに、業界についての事前リサーチは全くといっていいほどできていませんでした。 折り箱屋に営業に行くと、なぜかいつも「これはすごいですね〜。面白いですね〜。これからはこの時代がきますよ〜」とほめられます。プレートの厚みが均一でないという品質的な問題はあったのですが、お客さんはそのことを一切指摘せず、ほめるばかり。そして、発注は全くなし。営業マンはこの訳の分からない状況に振り回されていました。そのうち、折り箱屋の前の段階に、材料に切れ目を入れる専門の業者が存在することを知り、その業界の会合が京都の旅館で開かれるという情報をキャッチ。アポなしでもぐり込み、朝食時に全員の前で商品説明をするという無鉄砲な営業までやりました。
 営業的な苦戦もあり、社内でもプレートの製造への大反対が巻き起こっていました。社内での言い争いも絶えず、当時の担当者はプレッシャーで食事ものどに通らない状態に追い込まれました。翌年、ようやく初めてコンテナ一杯の製品を出荷することになりますが、まさに苦労して育てた娘を嫁に出す心境でした。

 その後の地道な営業活動の結果、京都のある菓子店が当社の製品販売に協力してくれることになり、折り箱の展示会に参加することになりました。展示会では大好評を博し、「ゆずもち」への採用を皮切りに京都中に当社の製品が広がっていきました。やがて京都での成功を聞きつけて、金沢の商社からも引き合いがきました。その商社は先にアポなしで飛び込んだ京都の会合に出席していた会社だったため、「ようやくここまできた」と、感慨深いものがありました。1973年のオイルショックを契機に、当社のプレートは全国的に定着することとなりました。1974年には全国の得意先を集め、定期的に情報交換や勉強会を行う「ユーピー会」を組織し、現在まで息の長い活動を続けています。
 1976年には新たにバリエーション豊かな柄の入ったプレートの製造を開始しました。これまで、折り箱には木目模様のものしかなかったため、柄を入れるのは冒険でした。開発にあたっては、京都と金沢の業者に相談を持ちかけたのですが、金沢では「そんなコストのかかる箱は使えない」と渋い顔をされたのに対して、京都では「これは面白い」とアイディアまで出してくれました。柄の入ったプレートは現在では全出荷量の約半分を占めるまでに成長しています。

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